「世界一の日本語教師になりたいです。」これは日本語学校の採用面接のときに、面接官として並ぶ日本語教師の先輩方に向かって私が話したことです。そもそも私が日本語教師になろうと考え始めたのはまだ大学生の頃でした。そして8年越しで夢が叶い、私は晴れて日本語教師の仲間入りを果たすことができました。
私が生まれたのは東北地方の小さな村です。小さいけれども私にとっては「大いなる田舎」。ここには日本の文化や伝統、歴史が息づいており、日本人が忘れつつある「日本」にたくさん出会うことができる、そんな村です。この村に生まれた子供たちの中で、村を出る人はごくわずか。しかし、私は村を出て東京へ行くことに決めました。私はこの村が教えてくれた「日本」を学びに大学へ行きたいと、夢を膨らませていました。
東京という大都会で私が学んだことは、これもまた大切な日本の文化なのだということです。歴史や伝統だけが文化じゃない。文化は、今なお作りつづけられているのだと知りました。私は都会の文化、地方の文化、これらの日本の文化を世界に発信できるような仕事に就きたいという思いに駆られました。そんな中、私は日本語教師という職業と出会ったのです。
皆さんは日本語教師という仕事をご存じでしょうか。簡単に言えば日本語を母国語としない人(主に留学生)に日本語を教える仕事です。では、日本語を教えるとはどういうことでしょうか。皆さん想像してください。ここは学校の教室です。教室には何がありますか。教室にはいろいろなものがありますが、こんな時私たちはどのような日本語でそれを表現するでしょうか。ふたつ例文を挙げてみます。
①教室に机や椅子があります。
②教室に机とか椅子とかがあります。
では問題です。このふたつの文は同じ意味でしょうか。①「~や~」と②「~とか~とか」に共通するのは、たくさんある中から2つか3つを取り出して言う時に使う表現だということです。「~とか~とか」の方が若干カジュアルな印象を受けるかもしれませんが、答えはどちらの表現も意味としては同じです。しかし私たち日本語教師は、日本語学習者に「どちらも同じ意味だよ。どちらを使っても問題ないよ。」と言ってしまってよいのでしょうか。私たちが「~や~」を使う時、たいてい目の前にあるものに対して使います。教室の中を見てみると、机がある。椅子も時計もある。でもたくさん言うのは大変なので「~や~」を使って2つか3つを取り出して言うのです。一方で「~とか~とか」は、話し手が思い出しながら話す時に使われます。教室に…ええと何があるかな。机とか、椅子とか…ああ、時計もあるかな。といったニュアンスです。この違いを伝えることが日本語教師の大きな役割であると私は思います。このふたつの表現は、意味は同じでも使われる状況が違うのです。辞書や文法書での勉強では気付くことができない、母語話者ならではの使い方を肌で感じるということ。これが語学留学をする最大の意義なのではないでしょうか。そしてもうひとつ、日本語を教えるということは、日本語の奥に潜んでいる日本の歴史や文化を伝えることであり、日本語教師はある意味日本代表選手とも言えるのです。言葉の使い方を教えるだけではなく「日本」を伝える仕事も担っていると、私自身日々実感しているからです。
ちなみに「世界一の日本語教師になりたい」というのは本心です。私はこの仕事にどうしても就きたくて、学生の頃はアルバイト、社会人になってからは働きながら養成講座に通い資格を取得したので、採用決定の連絡をもらった時は、まさに8年越しで夢が叶った瞬間でした。そして今、日本語教師として教壇に立っていますが、世界一の日本語教師になるためには何が必要か。私が「世界一の日本語教師になる」と言った時、何をもって「世界一」と言えるのかと面接で尋ねられました。知識や技術を除けば、私の中の答えは「世界一本気で生徒のことを考える教師」です。私は留学の経験がなく、英語もほとんど話せないので、生徒達が語学を学ぶ上で、また外国で生活する上で困難に思っていることはどんなことなのだろうと、想像することしかできません。きっと私自身が海外に身を置いてそれを体験しない限りは一生わからないのだと思います。海外の語学学校に学生として通い、本気で英語を勉強してみる。そして先程挙げた例のように、辞書上の意味ではなく、実際に使う環境に身を置いて肌で感じながら学んでいく。今、日本語学校で私の生徒達が経験していることを、私自身も海外で経験したいのです。そうすることで、教える立場では見えてこない自身の授業の改善点や新たな目標が、気づきとなって見えてくるかと思います。
私は「日本一」ではなく「世界一」を目指しています。「世界一」という終わりなき研鑽の旅を、これから生涯をかけて歩んでいくつもりです。