今から40年前、音楽には縁のない普通のサラリーマンの家庭に生まれた自分は、どういう訳か小さいときからラジオをつけてクラシック音楽に耳を傾けるのが好きだった。でも、自分が音楽家になることを夢見たことはなかった。
高校時代に出会った社会科の先生が、「君はいい声しているね」と自分の声を褒めてくれたことがきっかけで合唱部に入った。そこで他の人の声と自分の声を重ねる悦びを知り、さらにのめりこんでいくと、やがて「歌を歌っている瞬間の自分が、本当の自分」と感じるようになる。
でも、結局18歳の自分は、自分の一番好きなことにまっすぐ向かっていく勇気も持てず、決心もできなかった。「仕事になんかできるものじゃないよなぁ」、音楽は「趣味」と決めた。
結局、英語の教員を養成する学部に進学した。大学では、英語が人と人とをつなぐツールであることを十分学びながらも、果たして自分は何をしたいのか、いつもモヤモヤ迷っていた。
その最中、大学のある授業で出会った声楽家の先生に「キミ、本当は歌うことが好きだったら、音大を目指してみていいと思うよ」と声をかけられた。
そこで初めて思った、「本当の自分に挑戦しなきゃいけない!」と。
25歳の時、ろくに弾いた事もないピアノも含め一年がかりでがむしゃらに準備し入試を受けた。
「受けるなら一度きりで全力で」との思いで入試を受けたら、幸運にも音大への扉が開いた。
それから大学、さらに大学院へと進んで、ひたすら歌を学び続けることができ、学生という身分を終えたときには、30代も真ん中。今更ながらに、世間一般の同世代とはかなり違う、自分の立ち場所を感じていた。
「どうせ大海原に浮かぶ小舟に乗ったのなら、自分のコンパスを頼りに、もっと沖に出てどこにたどり着くのか漕ぎきってみたい」
そこで思ったのが、自分が一貫して大好きだったクラシック音楽の生まれた場所を実際に訪ねることである。
人生初の海外旅行の目的地にしたのは、オーストリアのザルツブルク。小さい時から好きだった音楽映画「Sound of Music」の舞台、理由はそれだけだった。
2013年の早春、ついにザルツブルクの町へたどり着いた。
興奮のうちに眠れぬまま迎えた翌朝、全くあてもなく町へ出かけると、とある一軒のドレスショップに吸い寄せられた。
ショーウィンドー越しに中を覗くと、そこには、少年時代からその美しい声に憧れ、大好きだったアメリカ人ソプラノ歌手バーバラ・ボニーにそっくりの人がいた。
彼女がその街で小さな店をやっているという話は小耳に挟んだことはあったが、こうして辿り着くとは全く思いもよらなかった。
「バーバラに違いない!よし!」
次の瞬間、思うより先に、店のドアに手をかけ、中に入っていた。
憧れの歌手は、突然の東洋人男性の来客に淀みなく“May I help you?”と声をかけた。
店に入ったきり、自分の言葉を失った自分が、しばらくの茫然のうちに咄嗟に頭に浮かんで口をついたのが“Just looking.”
彼女は怪訝な顔をしながらも“OK.”と、しばしの間自分に猶予を与えてくれた。
旅行会話集の例文どおりの言葉しか出てこずに、一生に一度の出会いを棒に振ってはなるものかという思いで、必死にたどたどしい英語で「僕は歌手で、あなたが好きで、あなたに僕の歌を一度聞いてもらいたいんです」とお願いしていた。
事情を理解し、すかさずOKをくれた彼女との出会いに導かれるまま、初めての海外旅行は、憧れの世界の歌手に自分の歌声を聴いてもらう機会となった。
一週間後、彼女のレッスンでは全精力を傾けて歌ったのち、彼女は言ってくれた。
「あなたは、あなたの好きな歌の生まれたヨーロッパで、歌手として研鑽を積むべきよ。」
その言葉をきっかけに、以降、断続的にヨーロッパへ出かけ、各地を転々と武者修行を積むうちに、「世界の舞台に立つオペラ歌手になりたい」と思うようになった。
本場の音楽、一流の人々に出会えば出会うほど、その音楽の伝統の深さと相まって、自分が目指す道の遠さを思い知ることも多い。
さらに、歳月は刻々と流れ続けていることに思いを馳せると「このままで大丈夫なのか、自分?」そんな声が聞こえないと言ったら嘘である。
でも、その折々に不思議と出会う人々の言葉にいつも導かれて、自分の好きなことを、回り道でも、一本道で辿っていくことを教わって、ここまで音楽を続けてきた。
ここまでの人生を振り返っても、小さい時分から好きな音楽をずっと追いかけられただけで、十分幸せな人生と言える、間違いなく。
でも、だからこそ、自分が生きている限り、夢は、最後までその夢の続きを、欲張りであっても追いかけて見てみたいのである。
「すべての山に登れ
あなたの虹を追いかけなさい
あなたの夢が見つかるまで」
ザルツブルクと自分の出会いのきっかけになった、映画「Sound of Music」のエンディングに流れる曲「すべての山に登れ」の歌詞を思い出し、今回こうして奨学金の応募をさせていただきました。