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フィリピンのパイロットになって少しでも恩返しを(コーキ)

僕が初めて海外に行ったのは11歳の時に小学校卒業旅行で家族みんなでフィリピンセブ島に行った時でした。自分にとって初めての飛行機、初めての海外、言葉、文化、人々、環境すべてに驚かされるものばかりでした。”セブ島”と聞くと リゾート地、白い砂浜、エメラルドグリーンの海を思い浮かべると思います。

ですが、僕が初めてセブ国際空港に着陸しレンタカーで夜のセブ市内を通りホテルに向かっている時に目にしたものは想像を上回るものでした。道路の街路灯はすかんだオレンジ色で見渡しが悪く、ホコリっぽく蒸し暑くてその時一番驚かされたのは信号待ちの時に自分よりもはるかに幼いボロボロの服を着た子供がいきなり車の窓を叩き何か語りかけてくるのです。彼はコンコンっと車の窓を叩き、手でジェスチャーと口を動かしカスカスの声で叫んでいました。僕はまだ英語がまったくわからなくどうにかして彼が何を伝えたいかを聞き取るために車の窓を少し開けた時、助手席に座っていた父に『窓を開けるな!』と怒鳴られそのまま少年を置き去りにするようかのように車は走り去って行きました。

僕はその時何が起こったのかわからず、唯一わかったのは彼が両手を動かし”何か食べる物が欲しい”というジェスチャーだけでした。それが彼が僕に伝えたかったことなのです。そのとこがわかった時、なんてこの国は貧しんだろうと思いましたし、飛行機でたった四時間半で行けるフィリピンと日本の違いの差に驚きが隠せませんでした。

僕は14歳の時に日本の中学校を卒業した後、一人ででセブの私立高校に入学しました。
それは、親から見捨てられたわけではなく自分の意思で英語の勉強がしたかったのです、そうすればあの時、貧しく幼い少年が何をもっと僕に伝えたかったのかがわかるかもしれないし、何よりもこの国をもっと知りたいという気持ちでいっぱいでした。高校一年生の時にクラスのみんなと話したくて死に物狂いで英語を勉強しましたがなかなかクラスのみんなと馴染めませんでした。思い返してみると自分は日本人だということを武器にフィリピン人のみんなを見下していたのです。

その態度がすごく表に出て一年生の時は友達はほぼいませんでした。それと同時に授業後、毎晩父が経営するセブのステーキ屋で皿洗いをしていました。これが地獄のようにきつく、無給で働いていました。厨房は、ステーキを焼く炭火で閉店時間まで火が消えることはなく、何よりもステーキをのせる鉄板が鉄で重く油まみれなのです。当時、皿洗いのスタッフはいましたがお客さんが多く忙しくてサラダやサイドメニューを作るのが忙しくなかなか僕の所まで手が回らなかったのです。

フィリピン人も嫌がる灼熱で油まみれの厨房で1日も休むことなく毎晩、毎晩僕はジプニーに乗って皿洗いに行き、日が経つにつれてレストランのフィリピン人との距離がだんだん近くなり、今ではフィリン人のみんなに認められたと感じています。
この出来事が自分を変えた忘れられない一年間です。決して、日本人だからといって貧しい国の人々を見下していてはいけないのです。

高校二、三年生の時には英語だけでなくフィリピンの現地語までもわかるようになってきてフィリピン人の友達もいっぱいいますし、すごく嬉しいのが学校の休み時間に下級生から上級生さらに、先生からもコーキ、コーキ、と呼ばれて少しでも日本のいいところやフィリピンとの違いを話しています。今、僕はセブではなく、新しくマニラの地で航空学生一年生として航空学を学んでいます。

もちろん、学校に日本人は一人もいませんがフィリピン人学生みんなは僕のかけがえのない宝物です。

わからないことがあれば何でもすぐに教えてくれて、助けてくれる、たとえ友達じゃないバスの運転手さんも露店のおばちゃんも、こんなに優しくいっぱい助けていただいたフィリピン人のみさ様に少しでも恩返しができれば、11歳の時に初めて見た貧しく幼い少年に少しでもフィリピンの違う場所や違う国を見て欲しいと思い将来フィリピン航空のパイロットになりたいと思い勉強を頑張る毎日です。


 
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